役に立つというものとは違うかもしれないけど、それでもそばにあってほしいし、この世界に存在していてほしい、というものがある。この世界に、というのが大袈裟なら、自分の生活に、というのでも、この部屋に、というのでもいい。
それはたとえば窓辺の花でも、昔見つけた綺麗な石でも、ただ繰り返し流していたい音楽でも、一編の詩でも、もしかしたら、それがあるからなんなのさ、と他人から思われるかもしれないものが、自分のなかの調和を保ってくれている。そんなことがある。
谷川俊太郎さんの『詩に就いて』という詩集に、「詩よ」という題名の、詩に向かって呼びかけるように綴られた詩がある。詩の最後、詩人はこんな風に語りかける。「活字に閉じこめられた詩よ おまえはただいるだけでいいのだ 何の役にも立たずにそこにいるだけでいい いつか誰かが見つけてくれるまで」
その眼差しは、詩が詩であることをなによりも肯定しているように僕には思えた。何者かであろうとしなくていい。ただいるだけでいい。誰かが見つけてくれるまで静かにそこで待っていること、それこそが詩なんだ、と。
一方で、詩になってみたら、そんな言葉をかけられ、どう感じるだろう、とも思う。この詩は寂しくて、孤独で、役に立とうとして、動き出そうとしていたところだったかもしれない(そんなことをしたら、詩が詩でなくなってしまうかもしれないのに)。そうじゃないんだよ、そのままでいい、それが詩なんだよ、と言われた詩は、果たして落ち着いてその場にいられるだろうか。
でも、少なくとも、いったん冷静にはなれるかもしれないなと思う。これが「詩」なんだ、それでいいんだと、寂しさを抱えながら、忘れかけていた「自分」を思い出せるかもしれない。
そしてまた、読む側にとっても、この「詩」があるということが物語っているものがあると思う──詩のある世界がここにある、と。